文学部投稿論文

河童の地域差     
 2007/07/04

河童大学学長兼文学部長  佐々木 篤

 ・河童の特徴を尋ねられる

 河童の研究を続けホームページに公開していると、お会いする方から、ときどき質問を受けることがあります。

 最も多いのが、「どうして河童に興味を持たれたのですか?」との問いであり、続いて、おそらく、ご本人が、長らく不思議に思っていたことなのでしょう、 「河童は緑色って本当ですか?」「河童の鳴き声は」「河童のミイラを持っていますか?」などなど、驚くほど、多岐にわたった質問が浴びせられることすらあります。

「それだけ河童に関心があるのならば、あなたも十分に河童好きですよ」
 と、笑ってしまうことも珍しくはありません。

 現代の日本人が、河童と聴いて、イメージするそ姿形は、おそらく、江戸末期から明治・大正を経た頃に、日本人が創り上げた日本人共通のキャラクターであると言えるのですが、 それ以前、いわゆる水の神・水の妖怪と考えられ想像される生き物は、現代の河童イメージとはまた別の姿で、日本全国に生息していました。

 ・日本人の神に対する考え方、感じ方

 大多数の日本人の心を形成している宗教観・倫理観・自然観は、八百万の神がおわす神道の土台の上に、仏教の影響を受けた思想です。いわゆる多神教ですね。 しかも、仏教の檀家に相当する神社の信徒は、氏子と呼ばれるとおり、そもそもの神様は家を現す氏を守る氏神様です。有力な豪族の家族郎党、少し広げて部族の神様といういことになります。

 部族ごとに神様がいらっしゃる。他の部族のことなどお構いなし。

 唯一の神が基本のキリスト教やイスラム教ならば、神のイメージは統一されています。しかし、多神教、それも、部族ごとで異なる部族神教というのが、日本の神であり宗教観なのです。統一された 神のイメージなど、日本にはそもそも無いのです。

 よって、神様と言っても、色々な神様が有って当然と考えるのが日本人です。

 世界中には、日本の神道のほかにも多数の多神教がありますが、そんな中でも、とりわけてバラエティに富んだ神が存在しそれを受け入れているのも日本人なのです。

 この宗教観は、日本人の基盤として奥底に流れている宗教観でもあります。ですから、ご本人は仏教徒と思っていても、キリスト教徒として洗礼いを受け、ミサに参加する方であっても、この宗教観を 無意識の中に持っているのです。

 ・河童は落ちぶれた神の姿

 さて、河童とはなんなのか。

 各地に残っている河童伝説や伝承を検証すると、それがいくつかに分かれることが判明します。

 一つは、水に対する恐れと感謝の気持ちから、水を神格化し、その使いべとしての河童。また、水辺に起こった不可解な事実を、明確な回答ができないことから 河童のしわざとしてしまった例。自分たちから見ると、理解ができない異文化や異形の人や動物を河童として自らを納得させてしまった例などが見受けられます。

 どの例も、それを河童と呼んでなんの不都合もありませんが、最も主流の考え方は、最初に挙げた水の使いべでしょう。

 現代の日本人・大和民族は、弥生時代に大陸から渡来した民族であろうと考えられています。

 そして、大和民族の水の神と使いべは、龍と蛇が良く知られています。赤城山の山頂にある大沼神社には、大蛇が祭られています。水辺、特に池や沼の周辺に、蛇にまつわる 民話や伝承が数多く残されています。

 大和民族が、日本列島に渡来する以前にも、この島には人が住んでいました。日本にも縄文文化の遺跡が残っていることから、それは証明されます。

 また、明らかに大和民族とは異なる北方のアイヌ民族と、なぜか似た濃い顔立ちの日本人を、九州を初めとした西南地方で見かけることがあります。

 大和民族が日本列島の主流の在住者として勢力を広げると共に、南北に押しやられたと考えるのも、不可能ではないでしょう。

 そんな、大和民族以前の先住民族も、時代が違うだけの渡来民族であろうと思われます。

 黒潮に乗って、現在の中国の南東部や南部、フィリピンやインドネシアから渡ってきたのではないかと思います。

 中国の福建省のあたりでは、船を守る水神様として媽祖神信仰が今でも続いています。

 聴くところによると、子供くらいの大きさの神様だとか。

 先住民族が、水辺に、子供くらいの大きさの水神様を祭っていたとしても不思議ではありません。

 河童は、零落した水神様であると主張する民族学研究者がいます。仮にそれを媽祖神の類似としましょう。

 彼らの主張では、元々は神として祭られていた媽祖神だったが、新渡来民族である大和民族は、水神様として蛇を祭り、 自分たちはないがしろにされ、頼みの綱の先住民族は、南北に移り住んでしまい、いじけてしまった。

 元は神様であったことも忘れ、妖怪たちの仲間に入り悪さをするようになった。それでも、心の片隅には、神であった素性の良さからか、 悪にはなりきれない。河童が、時に滑稽にも愛らしも感じられるのは、落ちぶれた神様だからだとのことです。

 この説は、私も大好きな河童解釈の一つです。

 ・千差万別、それが河童の本質

 全国には、それこそ、数え切れないほど個性的な河童の民話や伝承が存在します。河童ほど、地域差のある妖怪はいないのです。

 それは、あらゆるものに神を感じる日本人の宗教観と、河童が神の親族であることとが相まって生じていることなのです。

 河童の生態や姿を、特定する必要などは無いのです。

 千差万別の河童が存在する。それが、河童の本質なのですから。

 なので、私が『飲み河童』だったとしても、許してもらえますよね。みなさま。





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