文学部投稿論文

おいてけ掘河童考     
 2008/03/21

河童大学学長兼文学部長  佐々木 篤
・伝承は生きている

 伝承とは、人にとって理解に苦しむような『現象』があり、人々が不思議に思うところから始まります。
 不思議がっているだけでは、問題は解決しません。それが何なのか、人は考える動物です。
 人が寄り、話し合っている内に、『イメージ』がなんとなく形成され、固まってゆきます。
 そして次には、そのイメージに『意味付け』がなされ、『伝承』として命を授かってゆくのです。
 人が作った伝承ですから、時代が変わり、環境が変わり、語る人が変われば、伝承も変化します。伝承は『生きていなければならない』のです。

・河童伝承

 河童の伝承はどのよにして形成されてきたのでしょうか。

 『水の妖怪』の伝承は、世界各地に古来からあります。日本では、最も古い書物である日本書記に、すでに水の妖怪が書かれています。
 わが国には、日本書記よりも古い文字で残された体系的な記録は無いのですから、これ以上古い記録を探すのは不可能に近いと思います。しかし、日本以外の国の中には、もっと古くから文字による記録があります。それらには、水の妖怪と思える記述も少なくはありません。

 時代はずっと経ち、江戸時代に入ると、子供向けの絵が流行しました。そんな玩具絵のヒットテーマが、『百鬼夜行』です。多くの妖怪が、月夜に浮かれて行進する。絵師の豊かな想像力により描かれた秀作が今でも残っています。そんな絵が、江戸見物のみやげ物として、広く国中に広まりました。

 百鬼の中には、もちろん、『水の鬼(妖怪)』も入っています。

 もともと、古くから伝承されてきた『水神信仰』と『水の妖怪』の伝承に加え、そんな創作物としての、具体的に形を持った『水の鬼』のイメージが総合され、今日の『河童』を生んだのです。

・河童という名称

 もちろん、形成された『水の鬼』妖怪は、各種の名称を持っています。少なくとも、江戸時代には、全国的に統一した名称にまではなっていません。
『河童』と呼ぶ地方もありました。江戸を中心とした関東では河童と呼ばれていたようです。

・河童の姿

 河童の姿形も、江戸時代は千差万別でした。各種の書物に描かれた河童(必ずしも名称は『河童』ではありませんが)は、大きく分けて二種類です。

 一つは、動物系の姿です。中型の水棲の獣(かわうその類)や大きな亀のような姿です。一般に甲羅があります。もう一つは、人間の子供の大きさくらいの、人間に類似した姿です。髪の毛があり、一般にお皿のように見える、髪の毛の生えていない頭頂部を持っています。

 これらの二種類が、江戸時代後期に合体し、現在の河童の姿になったと推察しています。文政4年(1821年)より20年間書き綴った平戸藩藩主『松浦 静山』の随筆集『甲子夜話(かっしやわ):全100巻』の三十二巻九には、現在の河童にかなり似た絵が収蔵されています。

・『おいてけ堀』の妖怪伝承

 さて、話を本題の『おいてけ堀』での河童に戻しましょう。

 この伝承は、一般に『本所七不思議』と呼ばれる伝承の一つです。

 広く知られている伝承ですが、簡単に記すと下記の通りです。

「おいてけ堀で夜釣りをしていると、『おいてけ〜』と不気味な声が掛けられる。驚いた釣り人が、釣り道具をそのままに逃げ帰り、翌日、明るくなってから(妖怪は昼間は出ないと信じられていた)行ってみると、釣った魚が盗まれていた」

 おいてけ堀がある、現在の錦糸町のあたりに行くと、この『おいてけ堀』伝承にちなんでと、『河童の像』が多数置かれています。
 地元の人に聴くと、「おいてけ堀伝承の犯人が河童だったからさ」との答えが返ってきます。
「え、なんで河童なの」と、私は思いました。

 私が『河童』ではおかしいと感じたのには二つの理由があります。

 理由1:環境的見地からの疑問
     『おいてけ堀』は、平地の埋立地に人工的に作られた運河です。
     水は流れてはおらず、濁った汚い水だったはずです。
     一般に、河童が棲む場所のイメージは、山から流れてきた清流が瀬を作っている陰気な場所です。
     『おいてけ堀』とでは、まったくイメージが合いません。
     この伝承を作った江戸期の人たちも、この堀と河童のイメージは結びつかなかったはずです。
 理由2:河童の特性からの疑問
    河童は水に棲む妖怪です。水泳は得意。もちろん、魚捕りも大得意です。全国に残っている河童伝承でも、
     恩を受けた人間に、魚をプレゼントする河童の話は数え切れないほどありますが、河童が、人が釣った魚を
     盗むような話しは聴いたこともありません。

 そこで、調べてみました。

 江戸後期に書かれた、名江戸町奉行でもあった『根岸鎮衛』が天明5年(1785年)より無くなるまで30年以上にわたり、奇談妖怪談を集めた随筆集、『耳嚢(岩波文庫全三巻)』を、あらためて見直してみましたが、1,000編を越す膨大な奇談の中には、『おいてけ堀』の話は収録されていませんでした。もし、すでに流布されていた伝承ならば、収蔵されていないはずはありません。 1800年前後、まだ伝承としては作られていなかったということです。ただし、似た話が一話収録されていました。『狐に欺かれ漁魚を失うこと』という話です。この伝承が、姿を変えたのかも知れません。

 『耳嚢』に遅れること36年に書き始められた『甲子夜話』も調べようと思っていますが、現代本で全六巻(平凡社東洋文庫)をすべて入手していないので調べ切れていません。なんとか全巻を入手し調べるつもりです。

 次に、大正後期(関東大震災の当日まで)に、読売新聞に連載された矢田挿雲著『江戸から東京へ(中公文庫全八巻+一巻)』を調べました。この本には、『おいてけ堀』伝承が記されています。しかも、その正体がはっきりと記載されています。『せいしつのよろしからぬ狸』のしわざと伝承されていると書かれています。

 読売新聞の『江戸から東京へ』は、関東大震災の当日で唐突に終わっていますが、筆者の矢田挿雲氏は、その後、関東大震災後を取材した記録を基に、大正十三年七月に、単行本として『地から出た月』を出版しています。その中では、 『本所七不思議の筆頭「おいてけ堀」は、錦糸町方面だともいわれるが。その頃、本所は、あんな奥まで行かなくとも、狸の声を聞かれたし、現に御竹蔵をとり回す壕には、廬萩叢生して、たまたま釣糸を垂れるものが、折角の獲物を狸に巻き上げられることは、再々であった。 房総線の咽喉元なる両国駅から被服廠跡、すなわち亀沢町から石原町停車場までが、御竹蔵の跡で、それを取り巻く堀が、「おいてけ堀」であった』 と、正体が狸であることと合わせて、「おいてけ堀」は両国と書いています。

 場所の特定はともかく、少なくとも、大正時代までは、河童のしわざとは誰も思っていなかったようです。

・いつから河童のしわざになったのか

 伝承は、時代とともに変化するものです。いえ、逆に言うと、変化しなければならないのです。『おいてけ堀』伝承が、『河童』に変わったのには、そこに時代の要求があった。伝承としては正しく生きているということになります。
 そんな意味からは、観光地などで、古い昔話を、そのまま語る『語り部』などが行われていますが、それは、観光イベントとしては価値があるとは思いますが、まったく文化的な活動ではなく、むしろ、文化を化石にしてしまう反文化活動であると思っています。

 さて、『おいてけ堀』伝承では、魚が欲しくても捕れない狸(もしくは狐などの獣)などが、釣り人を騙して魚を盗むという、しごく有りそうな伝承でした。それが、いったい、いつから、河童に変わったのでしょうか。

 おそらく、昭和に入ってからだと思われることから、都市化され、建物が立ち並ぶ『おいてけ堀』周辺の環境からは、逆に、実在し山に棲む動物である『狸』では、イメージが合わなくなっていたのではないでしょうか。
 水辺であることには違いが無く、実在はしない、イメージとしての妖怪の一種『河童』の方が、むしろ説明がしやすい。そう思っただれかが、仕掛けた話かも知れません。

 もしかすると、昭和三十年代の、清水昆による『かっぱ天国』の大流行あたりから、町おこしとして、『河童』を持ち出してきたのではとさえ、考えられます。

 そうだとすると、まだ50年ほど前の話ですからね。きっと知っている人が、まだいらっしゃるのではと思っています。






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