妖怪学入門
第六章 妖怪は神なのか悪魔なのか
・堕落した神
 柳田國男は、日本における妖怪を、世界各地のそれらとは明らかに異なる存在であり、元は神だったものが、堕落した姿だといっています。(一目小僧の話:1968)
 日本と同じように、多神教が民衆意識のベースにあるアジア諸国には、インドのヒンドゥーの化け物達のような、恐ろしい姿をした妖怪が存在します。しかしそれらは、ある意味では、いまだに神そのものであり、堕落はしていないのです。逆に、日本の普通の妖怪には、神のイメージは、ほとんどありません。
 ただ、例外はあります。妖怪の持つ霊力を恐れ、鎮める意味で神格化した事例が見られます。キツネの妖怪である『稲荷』や、湖や沼に住む、蛇の化身を『水神』として祭るなどです。それらは、日本の多神教の名残なのです。『河童』をはじめ、『鬼』や『一つ目小僧』などの、多くの日本の妖怪は神ではありません。
 西欧はどうでしょう。ユダヤ教に端を発する、キリスト教やイスラム教は、そもそも、一神教ですから、神は一つしかありません。世の中の全てのものは、唯一の絶対神が創ったと、されているのですから、本来は、神のライバルとしての存在である悪神(デビル)は存在しません。よって、得体の知れない『もののけ』的な妖怪は、教義的には存在しません。ただ、それらの近代宗教が普及したのは、せいぜい、2千年ほど前からです。それ以前は、広い意味での多神教(自然宗教)が、西欧でも一般的でした。それらには、魔物や妖怪が存在します。フランケンシタインやドラキュラ、魔法使いや魔女なども、そんな、キリスト教以前に、信じられていた素朴な宗教の名残でしょう。ただ、それらは、魔物や妖怪として認識されていますが、神ではないし、神だったとも思われてはいないでしょう。
・なぜ堕落したと認識されたのか〜仏教との関係
 神が堕落した『日本の妖怪』は、いつ頃から日本人の心に出現するのでしょうか。『日本書紀』や『古事記』の世界(八世紀はじめ)には見られません。それは、『日本霊異記』の時代(九世紀はじめ)になってからです。
 釈迦が始めた仏教は、自分が、自身の修行によって成仏する宗教です。積極的な布教はしません(上座部仏教=小乗仏教)。
 哲学そのものである静かな宗教である仏教は、貴族や身分の高い武士などのインテリ層には普及しましたが、地方の武士や一般民衆には難解でしたし、自然宗教では強調される、いわゆる『ご利益』がありません。そんなことから、なかなか普及しませんでした。そこで、仏教にも『神秘性』と『ご利益』を導入し、解りやすい新興宗教としての仏教を創り上げました。いわゆる『密教』です。そしてそれらを、より解りやすくするためにと考えた僧侶達によって、仏教説話や仏教絵巻が創作されました。
 主なテーマは、仏教のありがたい教えの力によって、日本に、仏教が伝来する以前から住んでいた、悪い神々(鬼や天狗が代表的です)が退治され、力を失って仏教に下るというストーリーです。
 仏教を、学問のない庶民に、解りやすく教えるための宣伝に利用されたのです。その結果として、退治された、堕落した『元神』の『日本の妖怪』が生まれたのです。

第七章へ