民話あらかると

新しい民話を創りだそう      

 民俗学のベーシックな研究手法に、民話を取材し記録する方法があります。

 明治の中期から昭和の初期に、柳田國男先生を初めとする著名な民俗学研究者が全国の民話を取材収集し、各種の民話全集が出版されています。

 それら、集められた民話は、国の宝ともいえる貴重な資料ではありますが、それは、すでに民話では無く、ある特定の時代の民話、つまり、民話の化石なのではと思っています。

 そもそも、民話とは何か。

 民話とは、本来、語り継ぎ文化です。お話としてのストーリーは単純です。それは、親が子に話して聞かせるための物語ですから、複雑な話は向いていなません。 子供を寝かしつけるまでの、ほんの少しの時間で語り終えることができる程度の長さであることが必要なのです。

 また、語り継ぎの民話は、本の読み聞かせとも違っています。印刷されたお話を読むのではないのです。

 だからこそ、そこには、語る親の気持ちが入り、微妙に違ったものとなるのです。

 親の気持ちも、その親個人の性格による変化もあると思いますが、時代や社会環境の違いも、微妙に影響を与えるでしょう。それがあるからこそ、民話の意義が あると思っています。

 そして、古来より、民話は、そのようにして、語り継がれ、変化し、伝わってきました。それが、明治以降の民俗学の発展、印刷文化の普及と共に、 ある特定の語り手の民話が、まるで化石のように固着化されてしまったのではと、思うようになりました。

 そのような観点から民話を読んでみると、現代の価値観からは首を傾げたくなるような民話が多くあることに気がつきます。

 例えば『鶴の恩返し』です。

「愛妻が、機を織る、その姿を見てはいけないと言われる。しかし、我慢ができず見てしまう。そこには、人間とは違った姿が有った。 そして、妻は去ってゆく」

 これは、このように解釈できるのではないでしょうか。

「妻はよそ者である。よそ者だから、当地には無い特別な技術を持っているので、すばらしい織物を造ることができる。しかし、よそ者を受け入れることは禁止されている。 よって、妻がよそ者であることははっきりした以上は、別れなければならない」

 これは、江戸時代の価値観では正いと思われます。よそ者を安易に受け入れることは危険です。鎖国時代ですから、妻が外国人だったら、大問題になります。外国人では無いとしても、 他国や幕府の隠密だったら、その者を受け入れることは犯罪行為です。

 安易に、正体の知れない者と交わるな。この民話はそれを教えているとも読み取れます。

 しかし今は、積極的に海外からの労働者や訪問者を受け入れる必要がある時代となっています。この民話は、現代の価値観とは合わないのです。

 お話としては美しい。でも、幼児教育、情操教育の一環として、子供に話し聞かせるには問題があるのです。

 そんな意味から、これまでに集められた膨大な数の民話の中から、優れた文学性の高いお話を選び、現代の価値観を持って書き直す活動をしてゆきたいと、私は思っています。




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A.Sasaki@kappauv.com 佐々木