小倉川と河童 栃木県上都賀郡 小倉川は、むかしは、清瀬村にさしかかってからの下流を清瀬川と呼んでいました。 ある日、小倉主膳という豪傑が、馬をひいてこの川の淵を通りかかると、なにかにおびえたように馬がいななき、あとづざりをしました、よく見ると、淵のほとりに河童がいて、じっとにらみつけています。 河童は、とつぜん飛びついてきましたが、こちらも力自慢、何なくとりおさえてしまいました。殺してしまおうとも思ったのですが、ふびんなので許してやることにしました。すると河童は、 「私は、馬を見るとおそいかかりたくなるのです。このへんを通るときには、『小倉、小倉』と、あなたの名前を言ってください。そうすれば、悪いくせがおこらないでしょう」 それを聞いた人々が、『小倉、小倉』といいながらここを通るようになったので、この淵から下を、小倉川というのです。 (未来社版『日本の民話』より) 解説:この地域には、このほかにも、『河童駒引』の類話や、通りがかると相撲をしかける河童、助けられて魚を届けたり、助ける代わりに痔の薬の製法を教えたはなしなどが残されています。 |
鶏足寺池の河童 栃木県益子町 鶏足池に住む河童の太郎を見かけ、だましてからかってやろうと思った白タヌキの花子は、河童の少女に化けて池に現れました。その姿が、あまりにもかわいらしかったので、タヌキが化けているもとも知らず、太郎はすっかり好きになってしまいました。 ある日、河童に化けた姿で、人間につかまり、いじめられている花子を、怪我をしながらも、命がけで助けた太郎でした。 助けられた花子は、心から感謝しましたが、河童に化けてからかっていたとは、とても白状できず、恥ずかしくなって山に帰っていってしまいました。 それからです。池のほとりに、さみしそうにたたずむ太郎の姿が毎日のように見られるようになったのです。仲間の河童達からは、「太郎のやつ、まだ、白タヌキにだまされてるよ」。陰口を言われていましたが、実は、太郎も、花子が白タヌキであることに気がついていたのです。 それでも、花子に会いたい、太郎でした。 解説:河童がタヌキにだまされる、あまり例を見ないシチュエーションの伝承です。 |
河童の雨乞い 栃木県芳賀郡 むかし、田野の里を流れる小貝(こかい)川の淵に、河童の親分がすんでいました。 人を引き込んだり、川を荒らしたりして、百姓たちを困られせていましたが、妙伝(みょうでん)寺の和尚が、川岸に立ってお説教をすると、前非をくい、たびたびお寺へおまいりにくるようになっていました。 ある夏のこと、おそろしい日照りが続き、村人達は雨乞いの祈りをつづけましたが、ききめはありませんでした。これを見て河童は、人間に同情して雨乞いをすると申し出たのです。 河童が雨乞いをすると、たちまちもくもくと雲がわいて大雨が降りました。村人たちは、河童にひれふして拝もうとしましたが、河童は淵の中に飛び込んでしまいました。 それから数年後、河童は淵のほとりで死んでいました。村人はこの救い主のむくろを寺にとどけました。和尚はていねいに回向をしてやり、むくろはミイラとしていまに伝えています。 (未来社版『日本の民話』より) 解説:各地に残る『河童のミイラの由来譚』の一つです。妙伝寺は、今でも、益子町に実在しますが、河童のミイラが残っているかどうかは不明です。 |
河童の手 栃木県佐野市 小中(こなか)村を流れている旗川に赤淵というところがあり、年をへた河童がすんでいました。それが、このごろ畑を荒らしまわって困ります。 村人は、村一番の力持ち馬喰(ばくろう)の五郎平に河童をとらえてこらしめる役をたのみました。五郎平は、畑につくった番小屋に寝起きするようになりました。 幾日かたったある夜明けに、すいか畑にあやしい影がちらりと見えました。右手に鎌を、左手はこぶしをかため、河童にとびかかった五郎平が、むちゅうになってたたかい、ふと気がつくと、河童は片手を斬りとられ逃げ帰ってしまっていました。 五郎平は、河童の手を、光照院の見龍(けんりゅう)和尚に届けました。 その晩、眠っていた和尚さんはふと目をさましました。見るとそこには、しょんぼりとやせた老人がすわっていました。老人は、 「私の知っている人が片手を失ったのですが、こちらにあるとのころ、それをいただきたいのです」 見ると、老人の片袖がだらりとたれさがっています。和尚さんは、 「河童かは知らぬが、百姓たちの身にもなってやれよ」 片手をわたしてやりました。その後、このあたりの畑は河童に荒らされることはなくなりました。 (未来社版『日本の民話』より) 解説:後日談があります。和尚さんが、奈良の長谷寺に入門するために旅をしたとき、大水があり、川を渡ることができないで困っていると、助けた河童が現れ、対岸に渡してくれたとの話が伝わっています。 |