河童の恩がえし 静岡県駿河地方 むかし、浮島沼に葦がいっぱい茂っておったころです。この沼に一匹のいたずら河童がすんでいました。 ある年の夏のことでした。大雨が降り、浮島沼がたいそう増水しました。沼の水が、川に流れ出し、河童が流され、川合橋の溝にはまって動けなくなってしまいました。 「助けてくれ」河童は大声で助けを求めましたが、村人は、それがいじわる河童だとわかると、だれも助ける人はいませんでした。 そのとき、唯称寺の坊さんが通りかかりました。河童は「ひい、ひい」悲鳴をあげて泣きました。坊さんは、助けようかどうしようか、迷いましたが、 「今後、悪さをしないならば助けてやる」と言いました。河童は、悪いことはしないとあやまったので、助けてやりました。 それから何日かたった晩のころ、河童がたずねてきて、大きな壺を持てきました。また、それ以降、沼で働く人々は、河童にいたずらをされなくなりました。 この壺は、いまも唯称寺にのこっているとのことです。 (未来社版『日本の民話』より) 解説:河童が川に流される、珍しい話です。お礼は壺ですが、特別な力は無い普通の壺というのも、なんとなく現実的で良いお話ですね。 |
河童のあやまり証文 静岡県遠江(とうとうみ)地方 むかしから、流れの清い都田川は、中川を流れて、細江から浜名湖へ注いでいます。その、瀬戸と呼ぶところに、雄渕・雌渕の二つの渕があり、恐れられていました。 昔からこの渕には、河童が住んでいて、ひどい目にあった人があちこちにいたからです。 その頃、村の子供が渕に引きずり込まれ、尻ごだまを抜かれて死んだとの噂が村中に広まりました。 村の口聞きが寺の和尚さんに相談に行きました。和尚は気軽に返事をし、河童をこらしめることを請け負いました。 和尚は、渕に立ち、ありがたいお経を読みました。すると、どこからともなく河童がやってきて、和尚さんの前にかしこまりました。 「今日限り悪いことはしません」 和尚さんの前に手をついてあやまりました。 「よしよし、ゆるしてやるが、あやまり証文を書くか」と言いますと、 「はい、書きますからどうぞおゆるしください」と、あやまり証文を書きました。 今もその証文は残されていますが、字は、だれも読めないといいます。 (未来社版『日本の民話』より) 解説:紙に書かれたわび証文が、普通の文字ではなく、読むことはできないとの話は、多くの『河童のわび証文』に共通して見られる記述です。 |
かっぱのかめ 静岡県南伊豆地方 むかしむかし、河津川のほとりには、まだいたずらものの、かっぱがすんでいました。 ときどき、川で水あびするこどもたちの、足をひっぱったり、田をすきかえるうしんばのおしりをたたいておどろかせたり、夜道をかえるむすめさんをおどかしたり、なかなかのひょうきんものでした。 ある日、1日の仕事を終え、川岸で馬を洗っていると、馬がきゅうに飛び上がりました。見ると、馬のしっぽにしっかりとつかまり、ぶらぶらとゆすっているのは、どうやらかっぱのようではありませんか。そこで、村人達があつまり、とりかこんで捕まえたところに、お寺の和尚さんがやってきました。 「まあまあ、みんな、殺生なことはやめて、わしにめんじて、かにしてくだされ」河童を放してやりました。 その晩、夜もふけた頃、和尚さんの、ねまの雨戸をたたく音がします。河童がお礼にきたのです。かっぱは、小さなかめを差し出しました。 そのかめを、枕元において寝ると、どこからともなく、清らかな、水の流れの音きこえてきました。どうやら、かっぱのくれたかめから聞こえてくるようなのです。 この水の音を聴くと、気持ちがはれやかになり、頭の痛かった人は痛いことをわすれてしまいました。 このかめは、お寺の宝物としてしまわれ、時折耳にあてて水の音を聴く人の心をなぐさめました。 (未来社版『日本の民話』より) 解説:寺の寺宝として保管されている『甕(かめ)』の由来を、河童の民話として伝えたのでしょう。 |
河童の傷薬 静岡県北伊豆地方 むかし、中豆、雲金の小字小塚に、相磯守清という医者がいました。 ある時、馬に乗って川を渡っていると、ふいに、馬がおどり上がって、あやうくなげ出されそうになりました。見ると、馬は、何かに足をとられ前にすすむことができません。不思議に思って川の底をすかしてみると、長くやせた黄色い腕が、馬の足をつかんでいました。守清は、腰の一刀をぬきはらって、怪物の腕を切り払いました。斬られたあやしい片腕は、きられたまましっかりと馬の足をつかんでいました。 さて夜のこと、あやしげな気配がして守清が目をさますと、黙って枕元にきて座ったものがあります。片腕の無い河童が泣いていました。 「どうかおねがいです、私の片腕をお返しくださいまし」 「返してやらないこともないが、切り落とした腕を何とする」 「はい、河童には傷の名薬があります。返していただければ、お礼として、傷薬の秘法をお教えいたしまする」 守清は、さっそく薬を調合し、字名を小塚薬として売り出しました。雲金に傷の名薬があるというので、遠くからも求める人が後をたたず、大繁盛したとのことです。 (未来社版『日本の民話』より) 解説:全国的に広まっている『河童の傷薬』の典型例の一つです。ほとんど同じストーリの民話が、西上州(群馬県吾妻郡)にもあります。医師や薬問屋などが、宣伝用に作り出したコマーシャル・ストーリーなのかも知れません。 |