長崎県
河童石                         長崎県長崎市

 長崎のまん中を流れている中島川の上流の本河内水源地の下にある水神社の本殿のうらには、河童石という大きな石があります。この神社の神主さんは、河童族を統率していた栗隈王の家柄なのだそうです。
 昔は、浦五島あたりまでは海が入り込んでいました。この地の乙名(おとな)の台所で、女中が炊事などをしていると、よく河童が海岸からあがってきて、お尻をなでたりいたずらをするので、あるとき、怒った女中さんが、その手を包丁で切り落としたのだそうです。すると、夜になって、ひとりの老人がその手をもらいに来ました。乙名が、「いまからこの町内に、悪いことがおこらぬように、毎晩必ず見廻って歩け」と侘証文を書かせ、水神社に奉納したとのことが、『長崎名所図絵』に載っています。
 大正の終わりごろまでは、毎年六月一日には、岩の上に五色の旗を立て、甘酒をあげて「河童祭」が、もよおされていました。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:海に住む河童です。東日本では、河童というと、川に住んでいるのが一般的ですが、九州では海に住む河童が多く見受けられます
河童人形起源説話                 長崎県壱岐市

  『あまんしゃぐめ』は、村人の幸福を呪っていた。あまんしゃぐめは、善神の『ばんじょう』と約束をした。一番鶏が鳴くまでに橋が出来たら、島人を皆食っても良いと。あまんしゃぐめは、三千体の藁人形を作り、呪法をかけて人にし、工事につかった。
 鶏も鳴かぬうちに出来上がりそうになったのを見たばんじょうは、鶏のときをつくる真似をした。負けたと思ったあまんしゃぐめは、工事を止めて「ケイマゲウッチョけ」と叫んだ。
 三千体の人形は、千体は海へ、千体は川へ、千体は山へ行けと言うて放した。これが皆、があたろ(河童)になった。だから、があたろの手は引き抜くことが出来る。藁人形の変化だからだとう言うのである。
       (折口信夫「河童の話」より抜粋編集)

解説:河童の起源が人形であるとの説が、全国的に見受けられます。その原点が、壱岐の島の伝承ではないかとの文章が、民俗学者の折田博士の研究論文の取り上げられています。
島左近とかっぱ                 長崎県下県郡

 むかし、戦国時代ちゅう、世の中ん乱れたころじゃったげね。若い侍が阿須川ん淵を家にもどりよったげな。川ん中から子どもが川を渡って来て、おじぎをするげな。侍は、頭に皿が乗っとっとがみえたげな。かっぱん子どもがいうにゃあ、「大水んためえ、岩が流れてきて家ん戸口をふさき、困っちょります」というげなもんのう。「あなたは、親切なお方じゃ。頼みを聞いてくれっしゃりましょう」と、頭の皿の水をわなわな震わせて、いっしょうけんめい頼んだげなもんのう。
 若い侍は、はかまをまくりあげて、川ん中に入り、岩をのけてやったげなたい。
 すすると、穴ん中から、かっぱ一族が外に出てきて、最年長かっぱが。「お礼に、あんた様んいわはつとおりいたします」と申し出たち。
 若い侍は、「この乱世にいるものなあ、力だけだばい。力が欲しい」というたら、かっぱ長者は承知したげなたい。
 翌朝、侍は面を洗い、手ぬぐいをしぼったところ、力も入れとらんに、しぼり切ってしもうたげなもんのう。
 その後、若い侍は、武芸を磨き、島を出て行ったち。関が原の戦いで、西軍のえれえ武将として有名な、島左近ちゅう人が、こん人じゃった、ちいう話。
    (ぎょうせい社版『日本の民話』より)

解説:実在する人物を扱った伝承です。河童から、力をもらった。力を与える能力が河童にあるのなら、岩くらい、自分達で処理できそうなのですが、そこは、まあ、伝承です。
カッパ祭                      長崎県南松浦郡

 五島では、河童のことを、「河太郎」「ガァタロー」、またところによっては、「キャタロ」と呼んでいます。島中のいたるところに住んでいるといわれ、どこに行っても、「河童ばなし」を聞きます。
 河童はいたずらもので、人の尻を抜くといわれます。夜分に、福江の大円寺川のほとりや、石田城のお濠ばたを通ると、ジャブジャブと水音がするのは、河童が水浴びをしているといわれていました。
 五島カッパの大将は、大円寺川の上流に住んでいるそうです。また、河童の角力好きは有名です。投げとばしたりすると、腕が抜ける(左右がつづいている)そうです。
 吉久部落の藁家の一人暮らしのおばあさんは、毎晩、カッパを相手に酒盛りをしているそうです。
 上五島の有川町には、カッパをまつった「海童神社」があります。
 夏場あまり海におぼれる子供が多かったので、六月十七日に、町をあげて「カッパ祭」をしました。この祭りは、いまでもつづけられているのです。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:短い聞き取りの中に、河童の話が多数入っています。生活の中に、河童が浸透している地域なのでしょう。また、『海童』も河童としています。
夜釣りとカッパ                  長崎県平戸市

 平戸のお城のまえあたりに、小倉さんという家老もつとめたお侍が住んでいました。だいの釣り好きで、ある日、一人で平戸の瀬戸に夜釣りに出かけました。しばらくして、ひどく雨が降り出したので、下男の権助に傘を持たせてやりました。
 権助が、八幡神社の坂をくだると、海の方に、身の丈は、五、六歳くらいの、やせてひょろひょろしたものたちがうごめいています。「カッパだな」権助は、こう思いました。
 権助の姿をみると、ひとりがとびだし、「角力とうろう」と、いどんできました。「だんなさまの傘を持って行きよるケン、いまはできん」と、権助は断りました。
 海辺に着き、だんなに傘も渡し、釣りも終わったので、たんなのあとについて帰ろうとすると、カッパどもがついてきて、「約束のごと、さあ、やろう」と、寄ってきました。
 小倉さんが家に帰ってくると、権助がいません。他の二人の下男に探しに行かせると、権助は、雨にぬれて、魂が抜けたようになって、泥んこまみれで立っていました。
 権助は、「カッパどもあ、髪の毛がモジャモジャで、真ん中がくぼんどった」と言いました。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:河童と相撲の民話は、全国的に広まっていますが、一説によると、江戸時代、親のいない浮浪児たちが、各地の川辺で、集団生活をしていた事実があるそうです。そんな子供たちが、相撲をして遊んでいる光景を映しているのではとの、ほの悲しい説があります。
カッパの手                     長崎県南高来郡

 雲仙の古湯の雲仙神社の前の、満明寺の釈迦堂ですが、ここの宝物館に、「カッパの手」がおさめられています。
 満明寺がさかんで、高僧の赤峰(せきほう)法印というえらい坊さんのおられた頃のことです。山の中腹にある諏訪の池に、カッパの大将が住んでいました。手下のカッパどもと町にあらわれ女やこどもにいたずらをしました。「こらしめねば」とおもった赤峰法印は、諏訪の池へ降りて行きました。
 カッパの神通力と、法印の法力と、死力をつくしあらそうこと三昼夜、勝負がつきません。そこで、法印は思案したあげく、負けたと見せかけ、山へ、地獄道へと逃げました。追いかけたカッパの大将の頭の皿の水は、地獄道の熱気のため、蒸発して神通力を失い、完全にのびてしまいました。法印は、「カッパの手」を持ち帰り、代官の江口さんの家に、家宝として伝わっています。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:一種の神であり、神通力を持っている河童と、仏教の力との戦いです。仏教が勝って、河童は神から堕落したというのが、民俗学的な見解ですが、この民話では、仏教では勝てず、人の知恵で勝ったというのが、面白い展開です。
川ぼうずの婿入り              長崎県西彼杵郡

 じいがある時、畑に行ってみると、暑さのため田の畦が切れて水は干上がっていまい、いまにも稲は枯れそうになっています。じいは思わず、「この多に水を入れてくれるものがあったら、三人の娘のうちの一人をくれてもよいが」とつぶやくと、川ぼうず(河童)がそれを聞いてヒョッコリあらわれ、水を溜めるといいました。
 翌朝に、田んぼにゆくと、ひたひたと水が一ぱいたまっていました。そこで、姉娘に川ぼうずとの約束を話すと、娘はことわりました。次の娘も、「川ぼうずのところへ行くくらいなら、死んだほうがまし」と嫌がります。おしまいに、末娘に話すと、「ことわったら、じいがうそつきになる」と言いました。
 娘は、嫁に行くのに、「センナリビョウタンが欲しか」とたのみました。
 川ぼうずは、娘をつれて川に入りました。娘は、川の中ほどでヒョウタンを投げ入れました。川ぼうずは、拾ってやろうとヒョウタンにしがみつきましたが、すぐに水の底に沈んでしまいました。また、ポッカリ浮かび上ったので、いどみかかると、また沈みます。川ぼうずは、しまいには、気味悪がって、娘のことはあきらめて、逃げてしまいました。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:山口県の『かっぱとひょうたん』と類似の民話ですが、ひょうたんが、浮くのではなく、沈む話になっていて、意味が不明です。地元の老婆から取材した話となっていますので、収録時に手違いがあったのかも知れません。