ひょうすんぼ                   宮崎県日向地方

 むかし、むかし。にせどん(下男)が、川に馬入りに行っていました。すると、川のなかから、ひょうすんぼが出てきて、馬の足にかみつきました。馬はびっくりして、ぴんこ、ぴんこ、跳ねながら、家にとんで帰りました。
 ひったまげたにせどんは、あわてて家に帰って見ると、馬の足にひょうすんぼが食いついたまま、気をうしなっていました。にせどんは、なわでしばって、馬屋の柱にしばりつけました。
 ひょうすんぼは、頭の皿の水がひっくり返って、すっかり元気がありません。ところが、家のおかみさんが、米のとぎ汁を持ってきて、馬に飲ませようとしました。ところが、柱にひょうすんぼがしばりつけられているのを見ると、「なんというざまじゃ」と言いながら、とぎ汁をさぶんとかぶせました。すると、ひょうすんぼは、きゅうに力が出て、なわを切って、逃げ出してしまいました。「あら、しもた」おかみさんは、そういって残念がりました。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:『河童駒引き』類似の民話ですが、シンプルすぎて、何が言いたいのか解らない。民話としてのテーマが希薄な話です。
宮崎県
河童の遠征                     宮崎県延岡市

 むかし延岡の有馬氏の家来に八左衛門という武士がいて、島原の乱に出向いていました。乱も終わり、延岡に帰る前の日、八左衛門は、土地で名高い有馬の蓮池を見物に出かけました。
 池のほとりを歩いていると、一匹の河童が枯れ草の上で日向ぼっこをしてるのを見つけました。八左衛門は、そっと河童に近づき、いきなり腰の刀をあびせかけたのです。手ごたえはありましたが、河童の姿は見えません。水に飛び込んだ音だけが残りました。
 翌日、八左衛門は、殿様のお供をして、延岡の城下に帰りました。
 それから2年、ある秋の日、庭先に一匹の河童があらわれました。敵討ちにやってきたのです。八左衛門と河童は、死に物狂いで戦いました。
 庭先がさわがしいので、八左衛門のおかあさんが出て見ると、息子が一人で叫びながら刀を振っています。河童の姿は見えないのです。
 夕方になったので、勝負は引き分けとしました。翌日も河童はやってきて戦いましたが、勝負はつきません。この話を殿様が聞きつけ、出向いてきましたが、それを察知した河童は出てきませんでした。
 その夜、寝ている八左衛門の枕元に河童が現れ、「殿様が邪魔するで勝負を決むることはできん。有馬の池にもどるわい」別れの言葉を言いにきました。
 翌日、この話を殿様の直純に伝えると、「今後ますますはげむがよい」八左衛門の武勇をほめてくれました。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:姿を見せずに戦う、狸や狐の民話では、しばしば目にするのですが、河童が見えない話は珍しいと思われます。それにしても、河童が殿様を嫌がると言うのも面白い民話です。

都農の悪党河童                宮崎県都農町

 むかし、都農(つの)の名貫川には、性悪なカッパが多勢住んでいて、人々を苦しめた。川辺にある徳泉寺にも出没し、夜中に天井で暴れまわった。怒った和尚は、千個の石に祈りを込め、経文を書き、川に投じた。身体の自由を奪われたカッパは、代表をたて、和尚に侘びを入れてきた。そこで、石を拾い上げ、埋めた、これが、河童封じの塚である。
 ところが、悪党のカッパたちは、和尚に復仇しようと、天井で走り回るだけではなく、砂までまいた。怒った和尚は、豆を煎り、裁断に供え、七日七夜の大祈祷を行った。和尚の呪文は、ことごとく煎り豆に吸い込まれてゆく。
 八日目、川辺に立った和尚は、「地獄へ行け」と、煎り豆を四方に飛ばした。それが、カッパどもの最後となった。これ以降、カッパの姿は、完全に消えてしまった。
    (山田書院版『傳説と奇談第14集』より)

解説:鹿児島県の児湯郡都農の徳泉寺には、今でも、カッパ封じの塚や、和尚の記念碑が存在するとのことです(昭和42年現在)。場所や登場人物が特定されていますので、民話というよりも、伝承ですね。
河童のくすり                   宮崎県日向地方

 むかし、むかし。山の中の百姓が、川のそばのせっちんに入っていると、ひょいと、ひょうすんぼの手が出てきました。百姓はびっくりして、「なに悪さするか」といって、すばやく、手を握ってひっぱりました。すると、手が、すぽんと抜けてしまいました。びっくりしたひょうすんぼは、「手をかえしてください」といいました。百姓は怒って、「おまえの手はかえさん」といいました。
 ひょうすんぼは、毎晩、百姓の家にやってきて、「返してください」といいました。百姓はかわいそうになって、「もう、悪さはするなよ」と言いました。ひょうすんぼは、よろこんで、「お礼にひょうすんぼの骨つぎぐすりをあげましょう」といいました。
 骨つぎぐすりとは、土用の丑の日に、笹の葉をかんそうして、きざんだものを、ねってつくるのです。
 このくすりは、たいへん効きめがあって、百姓はこの薬を売ってお金持ちになりました。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:典型的な『河童の傷薬』ですが、薬の作り方まで語っているのは、珍しいと思われます。
河童のお礼参り                宮崎県西臼杵郡

 むかし、百姓が村の娘をお嫁にもらいました。ところがその女が嫁にきた夜から、「ひょい、ひょい」と家のまわりで河童の鳴き声がするのです。また、毎年、年の暮れになると、生きのいい川魚がかまどの上においてあるのです。
 鳴き声は、「おっかさん」と聞こえることもあります。それもそのはず、嫁に来た女は、ずっと前に、片輪の子どもを生んで、その子を川に捨てたことがあるのです。
 川に捨てられたこの子は、河童に育てられ、一人前の河太郎になっていました。河太郎でも、生みの親の恩は忘れません。年の暮れになると、人間のまねをして、川魚のお礼を持ってくるのです。
 ある年のこと、百姓の妻が、かまどにほうちょうを忘れておいたので、刃物をおそれた河太郎は、二度と母親をたずねてこなくなりました。河童のお礼参りは、これからのつたえでありますそうな。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:これも、民話として伝える意味と内容において、疑問のある、嫌な話です。
河童の魔よけ                  宮崎県西臼杵郡

 むかし、あるところに、泉福寺というお寺がありました。ある日のこと、和尚さんが法事に呼ばれ、天の浮橋に差し掛かったとき、橋の下から、「ひょうい、ひょうい」と河童の鳴き声が聞こえてきました。
 橋の下、岩の上にならんだ河童たちが、何か白いものをうばい合っているのでした。そこで和尚さんは、橋の上の石を拾って投げ込みました。
 びっくりした河童たちは、あわてて散って行きましたが、そのとき、パーッと白いものが砕け散りました。河童は、好物の豆腐をわられ怒りました。
 法事をすませ、振舞酒に酔った和尚さんは、いい気持ちで浮橋までやってきましたが、橋げたの上まで水が増え渡れません。河童が川の水を呼んで困らせているのです。和尚さんはしかたなく、引き返し、その晩は檀家の家に泊まりました。
 あくる朝、良く研いだ包丁を豆腐にさして出かけました。橋に近づくと、金物を恐れる河童は逃げてしまいました。このことがあってから、泉福寺に参る檀家の人々は、豆腐に縫針をさして持ってくるようになりました。それが、河童の魔よけになったのです。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:河童が持っていた豆腐をだめにしたのと、魔よけの金物を豆腐にさすことに、因果関係はありません。単なる豆腐つながり。豆腐に縫針は、針供養の作法です。なにか、伝承に混乱があるのでしょうか?
河童と金丸どん                宮崎県東臼杵郡

 むかし、むかし。門川の中山神社に、金丸どんとよぶ神官がいました。金丸どんは、神職すが、剣術に優れ、近郊に知られていました。
 ある日、村の土橋を歩いていると、橋の下から河童が顔をのぞかせました。「なんだ河童か」金丸どんが、そのまま通り過ぎようとすると、「金丸どん、おりが話もきいてくださり。こん川ん大蛇が、毎晩、やちきよって、おりが子を、一匹ずつぼうと飲んではっちくとじゃが。ほって、一匹しか残っておらん。大蛇を退治してくだっさらんか」
 その晩、金丸どんは身ごしらえをして土橋の下で待ちかまえていると、大蛇が出てきました。金丸どんは、するどい早業です。大蛇は一刀のもとに息絶えました。
 河童からお礼を言われた金丸どんは思いつきました。時々、村の子供たちが河童にいたずらをされていたのです。「おまえが悪さをせんごつたのむわい。おりが子孫だけでんよか」「あんたん孫子さんにゃ、悪さしません」河童は約束しました。
 それから村の子は、川で泳ぐときには、「ひょうすんぼ、金丸どんの一党じゃ」ととなえるようになったのです。
   (未来社版『日本の民話』より)

解説:河童に恩を売り、悪さをしないよいうに約束させる話は多いすが、自分の子孫だけで良いと、条件を付けている民話は初めてです。しかも、子どもに、自分は子孫だと、うそを言わせて災難除けにしています。これも、不思議な民話です。