河童名所探訪
遠野カッパ淵と銀河鉄道の橋


掲載日:2003年7月26日
最終更新日:2009年7月5日

 河童の伝承が、いつの頃からあったのかは解りませんが、民俗学の祖、柳田国男氏がその著作「遠野物語」の中で、河童の伝承を収集したことから、遠野には、河童のふるさとのイメージが定着しました。

 遠野といえば岩手県です。私の祖父も、岩手の出身です。しかも、柳田先生に遠野の民話を伝えたのが私と同じ姓の男性、浅からぬ因縁も感じていました。そこで、連休を利用し、探訪の旅へと出立しました。

 残念ながら、東北地方には「寒冷警報」が発令されるほどの梅雨寒の日、小雨と仲良くする旅でしたが、水が大好きな河童との触れ合いです、これもまた、風情がありました。

 遠野へは、東北自動車道の花巻インターチエンジから、国道283号を使って向かいました。遠野市の西隣宮守村では、銀河鉄道ゆかりの「めがね橋」を見ました。かわいらしい石の橋です。

 時間的な余裕があまりなかったことから、遠野では、目的地を「カッパ淵」に絞込みました。「めがね橋」と「カッパ淵」を、写真で紹介します。

 最初に遠野訪問をしてからほぼ6年が経ちました。河童連邦共和国の河童サミットが、花巻温泉で開催されたのをチャンスに、翌日、再度遠野を訪問しました。

 一部の写真を最新の物に替えました。また、『遠野物語』出版百年を記念し、町並みの整備が進んでいる風景と、柳田國男を記念した施設ができていましたので、その写真を追加しました。
遠野物語で扱われた河童伝承


・猿ケ石川の川端の家では、河童の子供が生まれることがたびたびあった。
 ある家でのことである。家族は昼間畠に働きにゆき、その家の娘だけが残って留守番をしていたのだが、帰ってみると、娘はただ一人、川のなぎさにうずくまって、気味悪くにこにこと笑っていた。
 そんなことが続いた後、その娘のところに、男が夜々通ってくるとの噂がたった。始めのうちは、婿である娘の夫が外出している夜だけだったが、そのうちには、婿と寝ている夜にも来るようになった。
 その男が、河童ではないかとの評判が高くなったので、一族の者が集まって、これを防ごうとしたが、そのかいもかく、やがて娘は身ごもり、生まれた子供を見ると、その手には水かきがあった。
(「遠野物語」五五)


・上郷村の某家で、河童らしきものの子供が生まれた。
 確かに河童の子供であるとの証拠はないが、体が真赤であり口は大きく、みるからに醜い姿の赤ん坊だった。
 忌まわしいことだと、赤ん坊を捨てることにし、二股に分かれるところまで抱いていって置き去りにして戻りかけたが、 ふと思いつき、見世物にして金を稼ごうと、取りに戻ると赤ん坊はいなくなっていた。
(「遠野物語」五六)


・川岸の砂の上には、河童の足跡というものを見ることは決して珍しくはない。
 雨の日の翌日などには特に多い。猿の足と同じように親指が離れていて人間の手の跡に似ている。長さは9センチに満たない。その足跡は、人の足跡のように指先がはっきりとはしていないとのことだ。
(「遠野物語」五七)


・小烏瀬川の姥子淵のあたりに、新屋という家があった。
 ある日、淵へ馬を水浴びをさせに行った馬曳きの子は、馬を川に入れたまま他の場所で遊んでいると、その隙に河童が出てきて馬を川に引きずり込もうとしたが、 かえって馬に引きずられて厩の前までつれてこられ、馬の飼葉桶がかぶさり、閉じ込められてしまった。
 家の者は、飼葉桶が伏せられているのを不思議がり、少し開けてみると河童の手が出た。そこで、村中の者が集まり、殺すか許すかを評議した。
 評議の結果、村中の馬に今後悪戯をしないと堅く約束させて放した。
 その河童は、今では村を去り、相沢の滝の淵に住んでいるという。
(「遠野物語」五八)


・他の地方では、河童の顔は青いというけれど、遠野の河童の顔色は赤い。
 佐々木氏(注:柳田国男氏にこの話をした佐々木喜善のこと)の曾祖母が幼い頃、友達と庭で遊んでいたところ、3本ある胡桃の木の間から、真っ赤な顔をした男の子を見かけ、それは河童だということになった。
 今もその胡桃の木は大木となってそこにある。この家を囲む樹木は、すべて胡桃の樹だ。
(「遠野物語」五九)
 
現代語訳:Albert佐々木

 この伝承を元に、創作民話を創りました。


宮守村「めがね橋」
 この橋の形の美しさから、銀河鉄道と結びつけ、「銀河鉄道の橋」として観光に役立てている古い橋です。
 ご覧の通り、美しい橋ですね。
「めがね橋」説明プレート
 土木学的にも優れている橋のようですね。
 橋の前にある川端の公園に掲げられていたプレートです。

遠野市入り口で待ち構える河童
 国道283号を、宮守村から遠野市に入る入り口に、休息場を兼ねた公園があります。そこに置かれている石の河童です。
遠野市案内プレート
 遠野市周辺の道路地図と主要な地名が書かれた案内プレートです。

猿ケ石川
 公園に沿って流れる川が、遠野物語に、「川には河童多く住めり。猿ケ石川殊に多し」と書かれている川です。
猿ケ石川由来プレート
 猿ケ石川と呼ばれるようになった由来を説明するプレートです。

道の駅「遠野 風の丘」
 遠野市に入ってしばらく進むと、国道の右側に道の駅がありました。
 ここには、地域の物産のほかに、数多くの河童の小物が売られていました。
河童のお酒
 河童ゆかりのお酒やワインなどが売られていました。
 驚くほどの種類です。河童博物館で紹介し、今はもう無いと思っていた河童のボトルもありました。

カッパ淵・常堅寺看板
 カッパ淵に向かう小道を指し示す大型の看板です。
河童の厠
 常堅寺の駐車場にあるトイレです。二つの照明器具を河童の目に見立てています。河童に見えるでしょう。
常堅寺入り口
 古いお寺のようです。門の左右には、巨大な仁王の木像が二体安置されています。
常堅寺本堂前
 本堂の正面には、左右に木製の大きな河童こけしが置かれています。
カッパこま犬(左)
 境内に入って左側に、小さな神社があり、その前に置かれているこま犬は、頭にお皿がある河童の姿です。
カッパこま犬(右)
 このお寺が火災に合ったとき、どこからか現れた頭にお皿のあるこま犬が、消化を助けたとの言い伝えから祭られているのだそうです。
カッパ淵の祠と陶器の河童
 本堂の左側に「カッパ淵」のある小川が流れています。「カッパ淵」のほとりには祠がありました。
カッパ淵祠の内部
 祠の中には、河童が数体安置されています。

カッパ淵(上流)
 カッパ淵から見た流れの上流側です。
カッパ淵(下流)
 カッパ淵から見た流れの下流側です。
カッパ淵由来案内版
 カッパ淵のあるところが、ちょっとした広場になっており、由来を書いた案内板が掲示されていました。
かっぱこばし
 流れには、小さな木製の橋がかかっています。
 ここにも、大きな河童こけしが置いてありました。

橋のたもとの案内プレート
 おなじみの「河童駒引き」と、「カッパこま犬」のお話です。
常堅寺脇の田んぼに「馬の絵」が
 田んぼの各所に、二匹の馬の絵の真ん中に棒を通したものが挿されていました。

「馬っこつなぎ」のお地蔵さん
 7枚目の写真のカッパ淵への看板と、道を隔てた反対側にあったお地蔵さんです。



「馬っこつなぎ」説明プレート
 この地方には、二頭の馬を繋いで行う神事があり、それを模して藁で作った馬を飾るようになり、それも簡略化され、紙に描かれた馬の絵になったとのことです。
「柳田國男」像と記念館
 川に面して開かれた南側に銅像が建てられています。
柳翁宿
 建物の内部は、遠野物語の記念館です。
柳翁宿の反対側の建物群
 遠野物語を研究する会の施設などが並んでいます。

柳田國男隠居所
 高級官僚を引退してから、民俗学の研究をした柳田翁の隠居所が移築されています。
記念館の裏にある公園
 川に面した記念館の裏には、水車のある公園がありました。
銅像と反対側駐車場からの入り口
 国道に面して広い駐車場があり、そこからの入り口です。
町並み「語り部館」
 記念館と国道を挟んで向側には、民話の『語り部館』があります。

町並み「薬局」
 商店(薬局)ですが、蔵造りになっています。『遠野物語』出版百年のイベントに合わせて、改装したのでしょう。


 夏休みに入ったばかり、最初の土曜日だったので、あいにくと市内のホテルは満室が予約できず、半日だけの遠野探訪になってしまいました。

 遠野は、河童ばかりではなく、民話一般をテーマにすると、見るべきところが豊富にあるところです。また、冬の厳しい自然も、 そんな民話を生んだ母でしょうから、雪が降り積もる冬の季節に、雪女がでそうな頃、車ではなく電車を利用してゆっくりと泊まりがけで訪れてみたい。遠野は、 そんな気にさせてくれる素敵なところでした。

 柳田國男氏が、遠野を旅して聞いた話と、佐々木喜善氏から聞いた話などをまとめた本が『遠野物語』です。

 この本は、その後、民俗学の隆盛と共に、多数が出版された、地方に伝承している昔話や民話を、古老が語る語り口そのままに採取した本ではありません。 柳田翁が聞いた話の、翁が感じたその本質を、翁の格調高い上品な言葉(漢語調の文語体)で書き綴った本です。一種の文芸作品であり、民話集ではありません。

 柳田翁は、なぜ、語り口を文章に残そうとしなかったのでしょうか。もちろん、遠野の地言葉そのままでは、一般の人にはまったく理解はできないでしょう。しかし、その後の民話集のように、 方言の解説などを加えながら、語り口の雰囲気を残そうとはしなかったのか。 それは、地元の人が語る話には、誇張や誤解、中には無知からの感情的な言葉が含まれ、そのままでは、本質が見えなくなってしまうと考えたのではと思います。

 遠野には、『語り部』と呼ばれる人たちが、民話を昔ながらの言葉で話して聞かせています。私もいくつかを聞きましたが、その内容は、遠野オリジナルというよりは、民話一般に広く知られている内容を遠野の方言で話していると感じました。 それはそれで良いのです。語られている内容には特に意味は無いのです。地域に住む現代の人が聞いても、その方言は意味が判らないとのことです。これは、一種の音楽なのです。英語やフランス語、イタリヤ語などで歌われるヒット曲を、 意味を理解して聞いている人などほとんどいませんね。聞いていた美しければそれで良いのです。

 そんな意味からは、遠野の『語り部』さんたちの語りは、充分に美しい。私はそう感じました。


写真撮影日:2003年7月19日:2009年6月15日


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