六木の児童公園は、実に素敵にデザインされた公園でした。残念ながら春なので、水は入っていませんでしたが、夏の時期には水が入るでしょう。 河童達と無心にはしゃぎまわる子供の写真を、ぜひ撮影したいと感じました。夏にでも、再訪してみたいと思っています。 錦糸町には、河童の像のある公園があるとのことです。今回はそれを撮影したかったのですが、見つかりませんでした。 出かける前に、地図で確認していたのですが、印刷して持ってゆかなかったのが失敗でした。公園の、ほんの数十メートルまでは行っていたのですが、 発見に至らず引き返してしまったのです。
この『おいてけ堀』の場所は、実は特定されていません。 当時ですら、噂話による俗称ですので、正式な名称でありません。通常は本来の名前で呼ばれていたのでしょう。 推察されている場所は、錦糸町近辺との説と、両国の幕府御竹蔵の周囲の堀ではないかとの説の二種類があると、大正時代の読売新聞のコラム『江戸から東京へ(著者:矢田挿雲)』に書かれています。その作者は、御竹蔵の堀の方を有力と考えているような書きぶりです。 また、堀の造りが中途半端で、一部が荒れ地のようだったらしく、いかにも『狸』が出そうな雰囲気だったようです。 また、別の資料によると、この伝承自体が、「堀近くの悪旗本屋敷で博打場が開かれていて、往来の者をむやみに引きずり込んでいかさま博打をしていた」、それを直接的には言えず、妖怪伝承に話を変えて噂したとの説もあります。 <安政二年の尾張屋版:【嘉永新橋 本所絵図】より>
安政時代に出版された江戸切り絵図には、幕府御竹蔵の北側、旗本屋敷脇に『狸ホリ』と記された大きめな堀があり、そこから、御竹蔵を 廻るように、細い堀が描かれています。この堀が、俗称『おいてけ堀』との説が有力です。 また、この伝承が一般に流布していた頃、江戸時代から明治・大正時代に掛けては、『おいてけ堀妖怪(声しか聞こえず、姿を見たとの伝承はありません)』の 正体は『狸』というのが一般的でした。 『狸』のほかにも、『かわうそ』や『狐』などの記載が散見できますが、河童はありません。 それはそうですね、水中に棲む魚捕りの名人である河童が、釣り人から魚を盗むことは考えられません。イメージが合わないのです。 読売新聞の『江戸から東京へ』は、関東大震災の当日で唐突に終わっていますが、筆者の矢田挿雲氏は、その後、関東大震災後を取材した記録を基に、大正十三年七月に、単行本として『地から出た月』を出版しています。その中では、 『本所七不思議の筆頭「おいてけ堀」は、錦糸町方面だともいわれるが。その頃、本所は、あんな奥まで行かなくとも、狸の声を聞かれたし、現に御竹蔵をとり回す壕には、廬萩叢生して、たまたま釣糸を垂れるものが、折角の獲物を狸に巻き上げられることは、再々であった。 房総線の咽喉元なる両国駅から被服廠跡、すなわち亀沢町から石原町停車場までが、御竹蔵の跡で、それを取り巻く堀が、「おいてけ堀」であった』 と、正体が狸であることと合わせて、「おいてけ堀」は両国と書いています。 しかし、東京で育った年配の人に聴くと、場所はともかく、正体は『河童』と認識している方が大半です。 おそらく、正体を『河童』としたのは、昭和に入ってから、誰かが、なんらかの意図を持って、流したのでしょう。河童の流行に合わせた町起こしなのかも知れません。 錦糸町周辺に住む人たちは、『おいてけ堀』は錦糸町に有ったと信じているでしょう。伝承の正体も『河童』と考えている方が多いと思います。それはそれで良いのです。伝承は生き物です。それぞれの時代の価値観で変わるのです。 むしろそれが、河童であることは、河童大好きな私に言わせると『大歓迎』なのです。河童は今でも生きているのですからね。 『おいてけ堀』は錦糸町周辺にあった、そんな観点から錦糸町を紹介するホームページを見つけましたので、紹介します。とても良く調べています。文章もしっかりとしており、 おそらく、かなりの教養をお持ちの方が運営しているホームページなのでしょう。 錦糸町の歴史 http://www11.ocn.ne.jp/~tulipfls/kinshicho.htm 写真撮影日:2008年3月22日
追加撮影日:2008年4月28日
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