河童名所探訪
足立区の河童公園と界隈


掲載日:2008年3月23日
追記日:2008年4月28日
 このところ忙しいことと、河童にちなむ場所の情報が入手困難なこともあり、しばらく新規の掲載ができていませんでした。

 左の本は、河童連邦共和国所属の村民さんが出版された本です。(自費出版なので、書店では入手できません。詳細は、「河童と民話館」をご覧ください)

 ご夫婦で、数年にわたり全国各地の河童を取材し、写真と文章とで紹介する本です。

 『これは良いガイドブックになる』。そう思いました。

 今回は、この本の中に紹介されているところから、足立区の児童公園を訪ねてみました。

 なお、ついでに、亀有の駅前から、錦糸町まで廻り、『おいてけ堀河童像』も撮影するつもりで行きましたが、場所がわからず、当日は断念。その後(1ヶ月ほど後)、場所を確認し撮影。 『おいてけ堀』伝承のもう一つの場所候補地である両国にも行き、写真を撮りましたので、追加掲載をいたしました。

 公園の場所は解り難いのですが、Googleマップで場所を確認できます。



 ツクバエキスプレス線の八潮駅で降り、駅前の道を南西に進みます。ほどなく都内に。「ふれあい桜橋」を超えると、六木の住宅地に入ります。

 住宅地の中に、それほど大きくはありませんが、かわいらしい児童公園があります。


 六木中央公園の入り口には、ねそべった河童が。

 公衆トイレの隣にも河童像が並んでいます。

 入り口の他から園内に入る場所には、鉄パイプの河童がお出迎えです。

 なぜか、お砂場のとなりに大きな胡瓜がありました。


 園内には、おそらく、夏場には水をいれるのでしょう、大きな池のスペースがあり、亀の池の傍には、河童の顔があります。
 このスペースは、テーブル代わりに使うのでしょうね。

 ブランコの上にも河童の顔がありました。

 公園のほぼ中央部にある水場です。たぶん、噴水のように上から水が落ちてくるのでしょう。小さな子供が喜びそうですね。

 亀の池の中心です。全体が亀の形ですね。

 あちこちに置かれた大きな石の中には、加工がほどこされ、人の顔になっている物があります。これもそうです。
 この角度から見ると、横顔と正面にも顔があります。

 ちょっと解りにくいですが、これも顔です。


 河童が寝そべっている姿です。テーブルとして使います。

 公園の近くに流れる川は、コンクリートでできた人口の川ではありますが、なるべく自然の姿にと、管理者の心遣いが嬉しいですね。

 次には、北千住まで戻り、亀戸線を使って亀戸から錦糸町に行く予定でしたが、この公園のそばから、亀有行きのバスが出ていたので、予定を 変更して亀有にも行ってみました。
 亀有といえば駅前交番ですね。これは、北口の交番です。マンガのイメージにそっくりの古びた交番ですね。

 交番のすぐ前、JR亀戸駅北口には、警官姿の銅像がありました。。

 こちらは、南口の駅前交番です。北口に比べ、ぐっと近代的な『KOBAN』ですね。

 こちらの像は、祭り姿でした。



 『おいてけ堀』と河童、河童大学の文学部投稿文集に記事を掲載しています。写真は、錦糸町南口駅前から両国方向です。



 同じく、千葉の方向です。左は、普通のコンパクトカメラで撮影した写真ですが、こちらは、一眼レフカメラに、10ミリという超広角レンズを 使って撮影しました。迫力がありますね、レンズの力です。


 六木の児童公園は、実に素敵にデザインされた公園でした。残念ながら春なので、水は入っていませんでしたが、夏の時期には水が入るでしょう。 河童達と無心にはしゃぎまわる子供の写真を、ぜひ撮影したいと感じました。夏にでも、再訪してみたいと思っています。

 錦糸町には、河童の像のある公園があるとのことです。今回はそれを撮影したかったのですが、見つかりませんでした。

 出かける前に、地図で確認していたのですが、印刷して持ってゆかなかったのが失敗でした。公園の、ほんの数十メートルまでは行っていたのですが、 発見に至らず引き返してしまったのです。

 日を改めて、行ってきました。錦糸町の河童像です。(2008.04.28)

 なかなかかわいらしい良い像ですね


 『おいてけ堀』錦糸町周辺説に基づいた解説が書かれています。ただ、南北東西に整然と造られた旗本屋敷地域の堀ですので、「さびしい堀」ではなかったはずです。河童のイメージからそう思っているのでしょうけれど、事実認定に少し無理があると思います。

 この公園の地図です
 隅田川に掛かる蔵前橋(当時はありませんでした)から、江戸時代に幕府御竹蔵があった当たりの、現在の様子です
 横網町二丁目から隅田川方面。このあたりに御竹蔵と『狸ホリ』があったのでしょう
 横網町には、関東大震災での被災者の慰霊をする施設がありました。
 ちょっと風変わりな鐘楼がありました。屋根の作りが、日本の寺院や神社とは明らかに異なっていて目を引きました。
 この鐘の形、日本の物ではありませんね。中国製でした。写真では解りにくいですが、広州で造られたようです。
 関東大震災の時、中国の仏教界が、亡くなった方のために贈ったようです。戦後、ギクシャクした日中関係ですが、大正時代までは、良い関係だったのでしょうね。1日も早く、元に戻したいものです。


 この『おいてけ堀』の場所は、実は特定されていません。

 当時ですら、噂話による俗称ですので、正式な名称でありません。通常は本来の名前で呼ばれていたのでしょう。

 推察されている場所は、錦糸町近辺との説と、両国の幕府御竹蔵の周囲の堀ではないかとの説の二種類があると、大正時代の読売新聞のコラム『江戸から東京へ(著者:矢田挿雲)』に書かれています。その作者は、御竹蔵の堀の方を有力と考えているような書きぶりです。 また、堀の造りが中途半端で、一部が荒れ地のようだったらしく、いかにも『狸』が出そうな雰囲気だったようです。

 また、別の資料によると、この伝承自体が、「堀近くの悪旗本屋敷で博打場が開かれていて、往来の者をむやみに引きずり込んでいかさま博打をしていた」、それを直接的には言えず、妖怪伝承に話を変えて噂したとの説もあります。

 <安政二年の尾張屋版:【嘉永新橋 本所絵図】より>


 安政時代に出版された江戸切り絵図には、幕府御竹蔵の北側、旗本屋敷脇に『狸ホリ』と記された大きめな堀があり、そこから、御竹蔵を 廻るように、細い堀が描かれています。この堀が、俗称『おいてけ堀』との説が有力です。

 また、この伝承が一般に流布していた頃、江戸時代から明治・大正時代に掛けては、『おいてけ堀妖怪(声しか聞こえず、姿を見たとの伝承はありません)』の 正体は『狸』というのが一般的でした。

 『狸』のほかにも、『かわうそ』や『狐』などの記載が散見できますが、河童はありません。

 それはそうですね、水中に棲む魚捕りの名人である河童が、釣り人から魚を盗むことは考えられません。イメージが合わないのです。

 読売新聞の『江戸から東京へ』は、関東大震災の当日で唐突に終わっていますが、筆者の矢田挿雲氏は、その後、関東大震災後を取材した記録を基に、大正十三年七月に、単行本として『地から出た月』を出版しています。その中では、 『本所七不思議の筆頭「おいてけ堀」は、錦糸町方面だともいわれるが。その頃、本所は、あんな奥まで行かなくとも、狸の声を聞かれたし、現に御竹蔵をとり回す壕には、廬萩叢生して、たまたま釣糸を垂れるものが、折角の獲物を狸に巻き上げられることは、再々であった。 房総線の咽喉元なる両国駅から被服廠跡、すなわち亀沢町から石原町停車場までが、御竹蔵の跡で、それを取り巻く堀が、「おいてけ堀」であった』 と、正体が狸であることと合わせて、「おいてけ堀」は両国と書いています。

 しかし、東京で育った年配の人に聴くと、場所はともかく、正体は『河童』と認識している方が大半です。

 おそらく、正体を『河童』としたのは、昭和に入ってから、誰かが、なんらかの意図を持って、流したのでしょう。河童の流行に合わせた町起こしなのかも知れません。

 錦糸町周辺に住む人たちは、『おいてけ堀』は錦糸町に有ったと信じているでしょう。伝承の正体も『河童』と考えている方が多いと思います。それはそれで良いのです。伝承は生き物です。それぞれの時代の価値観で変わるのです。 むしろそれが、河童であることは、河童大好きな私に言わせると『大歓迎』なのです。河童は今でも生きているのですからね。

 『おいてけ堀』は錦糸町周辺にあった、そんな観点から錦糸町を紹介するホームページを見つけましたので、紹介します。とても良く調べています。文章もしっかりとしており、 おそらく、かなりの教養をお持ちの方が運営しているホームページなのでしょう。

 錦糸町の歴史 http://www11.ocn.ne.jp/~tulipfls/kinshicho.htm
写真撮影日:2008年3月22日
追加撮影日:2008年4月28日


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